profile & history

~人生は近くでみると悲劇だが、遠くからみると喜劇である。~

1969年 

青森県七戸町にて「ローズ」という名のスナックを開業する。

1970年

「伝助」という居酒屋や「城門」という焼肉屋をはじめる。が、長くは続かなかったはず。

1972年

仕出し弁当店「七戸給食」をはじめる。

(当初は板金屋の敷地内のバラックで営業していた)
1976年(0歳)
西野竜介5月6日七戸町に生まれる。ゆりかごではなく、スーパーの買い物カゴに入れられて、仕出し屋の厨房に放置されて過ごす。
1977年(1歳)
人生がスタートして1年半目に「両手の平に重度の火傷を負う」というアクシデント発生。いわゆる野口英世状態になる。
1978年(2歳)
どこかの家に預けられる…。

家業の仕出し屋が町内の東大町地区へ移転。(当時は湿地帯で、かつて遊郭のあったエリアということでいろんな意味でいわく付きの土地だった。)

1979年(3歳)

喫茶らあく開店。24時間営業の雀荘併設という特殊な営業形態。

(初代マスターは元プロボクサーでガッツ石松の弟子。六本木の高級鉄板焼屋「瀬里菜」で働いていた…但し厨房ではなく駐車場係(笑))

1980年(4歳)

·この頃のらあくには、インベーダーゲーム機やジュークボックスがあった。

·県立七戸高校の学食をはじめる。

1981年(5歳)
·七戸幼稚園に入園。このときの友人が後に世界でただ1人の「タヌキケーキ研究家」の松本吉史氏。

個人事業主から法人へ。有限会社七戸給食 設立。

1982年(6歳)
弘前大学附属病院で火傷の皮膚移植手術を行う。

喫茶らあくに2代目マスターが就任。(麻布の中華料理店出身で焼売が得意。汚いコックコートに下駄、酒浸りという悪い意味で昔の職人だった。)

1983年(7歳)
七戸小学校入学。なぜか江戸千家流茶道をはじめる。(結局10年継続する)
1984年(8歳)
ピアノを習いはじめる。(結局10年継続する)

喫茶らあくで一時的にレンタルビデオ業務をはじめる。が、すぐやめる。(プロジェクトAや里見八犬伝があった。)

1985年(9歳)

七戸町の商店街にあった田清ショッピングセンター内のファミレスをはじめる。

1986年(10歳)
書道をはじめる。(最終的に5段習得)

喫茶らあくに洋食出身スタッフが在籍していたため、ドリアやポークソテーハワイアンといった当時としては斬新なメニューがあった。

1987年(11歳)
栗本薫「グインサーガ」を読みはじめる。
「ファイナルファンタジー(1作目)」にハマる。

喫茶らあくに3代目マスターが就任。(元ラーメン屋店主)

1988年(12歳)
思えば学級崩壊の先駆けだった。
(クラスの男子生徒の半数が飲酒と喫煙で教育委員会に連行されるという事件が!)

1989年(13歳)
七戸中学校へ入学。
·柔道部に体験入学をするが、道着と道場のあまりの汗臭さに吐き気をもよおして挫折する(泣)
·吹奏楽部に所属する。担当楽器はチューバ。当時の顧問はパンチパーマに髭、サングラス、全身皮のスーツでバイク通勤という人。
·この頃、部活にクラリネット奏者の斎藤行氏とトランペット奏者の関根剛二氏がたびたび指導に来ていた。

この頃、有限会社七戸給食は従業員数30人くらいだった。消費税3%が実施され、のちの業績に暗雲が漂いはじめる。

1990年(14歳)
·部活の顧問がかわると同時に部活が崩壊する(笑)。
·疑惑の弁論大会に出場する(あれはヤラセだ!)
·十和田市のジュニアピアノコンサートに出演し大失態をおかす。(苦笑)

1991年(15歳)
·部活を建て直そうと、指揮者のまねごとをして奮闘するも地区予選敗退という創部史上最悪の成績で終える。(ちなみに私が部長)
·高校受験前にアンサンブルコンテストに出場し、地区大会で金賞。そして、県大会で最下位(苦笑)。
1992年(16歳)
青森県立三本木高校普通科に入学。性懲りもなく吹奏楽部に所属する。
1993年(17歳)
·文系を選択する。
·この頃から暗黒時代になる。
·異常なほど勉強ばかりの毎日だった。

·七戸高校の学食から撤退

·田清ショッピングセンター内のファミレスから撤退

1994年(18歳)
·吹奏楽部に、後にバンド「everly」のメンバーとして活躍する小向忍氏が入部してくる。
·またしても吹奏楽コンクール地区予選敗退!(ちなみに私が部長)
·指定校推薦で神奈川大学法学部法律学科に合格。面接10分で終了。しかし、新設される自治行政学科へ1期生という響きだけで転科する(笑)。

1995年(19歳)
·神奈川大学法学部自治行政学科に入学。それにともない、横浜市へ引っ越し。初一人暮らし!
·性懲りもなく吹奏楽部に所属する(部員120名、10年連続日本一という、超強豪校)。
·爆笑問題単独ライブを見に行く。
·「SF小説を読む」という一風変わったゼミに所属する。
·吹奏楽コンクール全国大会特別演奏の前日にレギュラーからはずされる(泣)
·部活でジャニーズの野球大会を応援する。
·今は無き「五九楽ラーメン」という博多ラーメン店でバイト(マフィア風ファッションの中国人と二人で切り盛り。深夜3時まで働くも時給800円。オーナーは小指がないとか、トカレフを所持しているという噂が!)

七戸給食社長、心筋梗塞で緊急入院!

1996年(20歳)
·部活で東北演奏旅行。
·書類ミスで吹奏楽コンクールに参加できないという事態が発生!担当者が部員全員の前で土下座して、除籍になるという修羅場に!
·アルフレッドリード作曲「第五組曲」のレコーディングに参加。
·部活でハワイ演奏旅行。
·いろいろ嫌になって部活に退部届けを出したら除籍処分になった(苦笑)
·この頃からパソコンスクールに通いだす。
1997年(21歳)
·今は無き「横浜ジョイポリス」でアルバイト(瀬戸朝香を接客したことが!)
·栗本薫著「仮面舞踏会」を読んだことがきっかけで生活が激変する!
·インターネットをはじめる。チャットにハマる。この頃のネット世界はまだまだ安全で、しょっちゅうオフ会に参加してました。
·矢口ゼミ所属(テーマは日本国憲法)
·田中芳樹著「銀河英雄伝説」を読んだことで、その後の思想が大きく変わる。

·八戸市のひので給食センターが、勢力を拡大してきたために、わが社のシェアが奪われはじめる。

·消費税5%実施。経営を蝕みはじめる。

1998年(22歳)
·ネットゲーム「ウルティマ オンライン」にはまり、ネトゲ廃人になりかける。当時、全世界から参加可能、3000人同時プレイというかなり画期的なゲームだった。また、ゲーム内でユーザー同士の結婚式が行われたり、ゲーム内で建設した家が現実世界で売買されたり、ゲーム内でバグが発生すると世界中のプレイヤーが結託してデモを行うなど、後のメタバースやNFT取引の先駆けみたいなことが行われていた。

·母校の中学で教育実習するも、県内トップクラスの荒れ具合だった。1年で10人くらいの教師が退職を余儀なくされたらしい。教師の道を諦める(苦笑)
·地元老舗百貨店に就職内定。
·普通自動車免許取得。
·DTMをはじめる。このとき、ネットで知り合ったのが後にゲーム音楽クリエイターになる土屋暁氏(代表作アトリエシリーズ、アルトネリコ)とMIT(後に05年タワーレコードのインディーズ部門2位のボーカルユニット)。
1999年(23歳)
·教員免許取得。
·今は無き「中三 盛岡店」に入社。所属部署は寝具·インテリア担当。そんなわけで岩手県盛岡市に引っ越し。
·岩手に住んでいるにも関わらず、年に二回ほど渋谷でオフ会を主宰していた。
·社会人1年目でいきなりボーナス大幅カットの洗礼を浴びる(泣)
2000年(24歳)
·同期入社の社員が半分に減る!
·盛岡シティブラスに半年ほど所属する。
·転職活動を試みて、圧迫面接に破れ去る。
·某作曲サイトから、オムニバスアルバムを出す。
·お歳暮担当になり、残業時間が多すぎて管理職の給料を越える。
2001年(25歳)
·中三盛岡店退職。

人生第二章スタート!


·小学校時代からの友人と台湾へ旅行する。

·東京調理師専門学校調理高度技術経営科西洋料理コースへ入学。そんなわけで、東京へ引っ越し。専門学校のクラスは西洋料理コースの余った人間と希望者の少ない中華料理コースの合同クラスで、パンチパーマにセカンドバックという生徒や、授業中に先生と喧嘩する生徒など学校創立以来最悪のクラスと揶揄されていたが、後に中国料理初のミシュラン三ツ星を獲得する「茶禅華」の川田智也氏、小田原のイタリアン「オステリアイルチエロ」の佐々木健一氏、代々木八幡「酒坊主」の前田朋氏を輩出することになる。

·今は無き「居酒屋チムニー池袋店」でアルバイト。某口コミサイトで「学祭レベル」と酷評される(苦笑)
·今は無き高田馬場「フィールカフェ」でアルバイト。60席の店内にIH調理器1台で、パスタを提供するという圧倒的不利な状況で仕事をする。
·陳建一に飯を奢ってもらう。
·911テロが発生したためヨーロッパ研修が中止になる(泣)

·おふくろが癌になったため、七戸給食仕出し部門撤退!

2002年(26歳)
·日韓ワールドカップ絶賛開催中にホテルニューオータニで研修。(なぜだか他の研修生に比べて過酷な待遇だった!)
·料理のレベルが1つ上がる。
·ヨーロッパ研修旅行!イタリア、フランスへ。今思えば、幻の生ハム「クラテッロ·ディ·ジベッロ」の生産地へ行けたことと、三ツ星レストラン「ラ·コートドール」のベルナールロワゾー氏の料理を食べられたことが財産。ロワゾー氏はこの数か月後、猟銃自殺。当時、世界中の料理界に激震が走った。

·この頃喫茶らあくに中華料理出身のスタッフが在籍しダブルマスター体制だったはず。

2003年(27歳)
·某大学の学食で料理人3人で卓球部の賄いを作るという仕事をする。(このときの料理人の一人が西麻布アルドジェの初代料理長の黒沢明弘氏、もう一人がのちの那須高原ブリティッシュヒルズホテル料理長の森川幸男氏。)
·今は無き「news DELI有楽町店」でアルバイト。しかし、数か月後に料理の8割がパックモノになり、料理人の必要の無い店に移行しはじめる。
·今は無き「駒込の某イタリア料理店」で勤務。いろいろとボロボロになる(泣)。
2004年(28歳)
·池袋「サンシャイン クルーズクルーズ」で勤務。初めてまともな環境で料理人としての仕事をする。400席のレストランでオール電化の厨房。クリスマスはランチ1000人、ディナー120人が3回転する店だった。
·料理のレベルが1つ上がる❗
2005年(29歳)
·知り合いが多数働いているという理由で今は無き「レストランワーヤキン」で勤務。地方の伝統野菜をテーマにしたお店で、料理研究家の河合真里氏(安部なを氏の孫と言った方がわかりやすいか)が監修に入っていた。洋食経験者を募集とのことだったが、何故かヒジキや切り干し大根を作っていた…。
·新規開店半年にして急な閉店移転!それにともない今は無き「レストランワーヤキン有楽町店」で勤務。ビュッフェ形式のお店としてリニューアル。
2006年(30歳)
·移転半年後、まさかの再び閉店!業態変更に伴い今は無き「梅の花 有楽町店」で勤務。豆腐と湯葉をメインにした日本料理店でありながら、スタッフの半数が外国人で厨房全員アルバイトという不安要素しかなかった。
·実家の「喫茶らあく」を継ぐことに。青森県七戸町へ引っ越し。

·この頃の喫茶らあくは半端ない場末感が漂っていた。客層も怪しげな人が多かった。しかも、売上に対する人権比率が80%という経営的にマイナス300点の状態だった。

·4代目マスター(私)就任。

この年に七戸町と天間林村が合併。

2007年(31歳)

·七戸町で初めて「自家製ジェラート」と「生パスタ」を提供しはじめる。

·県庁ブログ「まるごと青森」に掲載。

·地元紙 デーリー東北に掲載。

·RAB「あっと生テレ」に出演。

2008年(32歳)
·過度のストレスにより、向こう12年ほど重度の偏頭痛に悩まされる。

·店内で元プロボクサーの渡嘉敷勝男さんが珈琲を飲んでいた。

·リーマンショック!世の中不況へ。
ビストロらあく債務不履行の危機!
2009年(33歳)
·敷地内に両親が家を建てる。が、一緒に住まず、同じ敷地にプレハブ小屋を建設し、そこに住みはじめる。

·関西ピッツェリア界のドン「さくらぐみ」西川シェフが来店してテンパる。

·栗本薫死去。グインサーガ22年かけて100巻以上読んだのに未完のまま作者死亡(泣)。1987年参照。
2010年(34歳)

·情報誌アミューズ掲載。

·地元紙 東奥日報に掲載。

·ATV「新幹線開業番組」に出演。

·シーランド公国より「卿」の爵位を授与される(笑)。
2011年(35歳)
·ミシュラン三ツ星 フランス料理「ロオジエ」で食事。二人で会計10万円に驚愕する。
·東北新幹線七戸十和田駅開業。

·国道4号バイパス開通に伴い、客足が激減!

·東日本大震災発生!これにより客足がさらに落ちる!

·喫茶らあくからゲーム機を撤去。

·リッツカールトンホテルの福井シェフが来店して焦る😱💦

·ミシュラン三ツ星 日本料理「小十」で食事。
2012年(36歳)

·俳優の永瀬正敏さん(キョンキョンの元旦那)来店。

·喫茶らあくから「西洋料理ビストロらあく」へクラスチェンジ!

·「婚活パーティー」という名の戦場へ赴く。

·ATV「おしゃべりハウス」に出演。

·大人数の宴会当日に従業員にバックレられる。翌日、帯状疱疹で救急(泣)
以降、慢性的な人手不足に悩み始める。偏頭痛がさらに酷くなる。

·店内ホールを大幅に改装。以前より断熱仕様になり、電気代が大幅に削減される。

2013年(37歳)
·七戸町有志ではじまった「ドラキュラdeまちおこし」に参加。要はハロウィンみたいなやつ。後にこの事がきっかけでファシリテーションに関する文献を読みはじめる。
·RABラジオ生出演。
·ABA「はっぴぃ」に出演。
·ジパング倶楽部に掲載。
·胃にポリープが見つかりはじめる(泣)

·ラベットラの落合シェフが来店するも、ただの似ている人だと思いスルーしてしまう。

·ワイン会なるものを初めて行う。

2014年(38歳)
·デーリー東北「県民の声」に掲載。
·東奥日報「県民カレンダー」掲載。

·デーリー東北「創食人」に掲載。

·雑誌アミューズ掲載。

·ランチを1620円のコース料理のみにする。が、受け入れられず1年で挫折。

·眼底痙攣で顔半分の痙攣が止まらなくなる(泣)
·消費税8%実施。
2015年(39歳)
·「ベルギーエシャロット栽培プロジェクト」を開始する。県立営農大学校へ試験栽培を依頼。
·ディナータイムを予約制に変更…7カ月後、フリー営業に戻す😅。
2016年(40歳)
·天皇陛下の生前退位に関するコメントが新聞に掲載されてしまう。

·ついに従業員が誰もいなくなり独りになってしまうという事態に❗

·厨房を改装し、冷蔵庫等を省エネのものに変更するが、リースの支払いに向こう数年四苦八苦する。

·中国の故事成語「先ずは隗より始める」に習って時給1000円で求人をだす(当時の最低賃金716円)。

今思えば、ここでやっと人生底打ちすることになる。
2017年(41歳)
·株式投資をはじめるが、1週間後に北朝鮮がミサイルを発射し日経平均暴落。資産が激減する(泣)

·飲食業経験者の従業員が増えはじめる。

2018年(42歳)
·VIXショックを経験。はじめ何が起きたか、理解できなかった!
·この頃、日経新聞の購読、朝と夜の日経ニュースの録画と視聴が日々の日課になる。この積み重ねにより、2年後に起きる世界的なパンデミックを経済的にほぼノーダメージで乗り切ることができる。
2019年(43歳)

·初めて労災申請をする。

·平成から令和に改元!

·店舗運営が安定しはじめる。

2020年(44歳)

·厨房一部改装。サラマンダーと低温調理器を導入。

·中国武漢から発生した新型コロナウイルスによる世界的なパンデミックが発生!世界が大混乱に陥る‼️
·市場でサーキットブレイカーが発動!原油先物価格が史上初のマイナス価格になる!
·実はこの段階で、ファイザー社とモデルナ社の株を保有していた為、後のワクチン開発に資金提供していたことになる。

·コロナウイルス感染防止のためにしばらく店舗営業がお休み。

·ディナータイムを1日一組の予約制にする。

·この頃、全国的に飲食店の閉店が相次ぐ。
·調理師学校時代の友人がミシュラン三ツ星を獲得する。
2021年(45歳)
·料理のレベルが1つ上がる❗
·ワクチン接種開始。
·取引先の閉店や病気の蔓延により、ベルギーエシャロット栽培計画中断(泣)

·西野竜介、七戸給食有限会社の取締役に就任。事業目的に農業や魚の養殖、食品販売などを追加する。

·大雨により近くの川が氾濫しそうになったため、営業中止。そして避難。
·コロナウイルスが致死率の高いデルタ株に変異。
·ウォーレンバフェット氏を目標にする。
2022年(46歳)
·コロナウイルスが感染率の高いオミクロン株に変異。ただし、致死率は下がる
·ロシアのウクライナ進攻と中国のゼロコロナ政策、アメリカの中央銀行の利上げという複数要因により、世界的に急激に物価が上昇しはじめる。経営の利益率が悪化する。

·ガソリン価格の上昇に伴い、従業員に交通費を支給しはじめる。

·誕生日に尿管結石になり、悶絶する(泣)。
·その約三ヶ月後に膀胱結石で緊急入院&手術。トラウマ級の激痛を経験する(泣)。

·7月 安倍元首相が遊説中に暗殺され、日本中に激震が走る。

·雑誌「アミューズ」掲載


2023年(47才)

·文章アプリnoteでエッセイのようなものを連載開始。【note ビストロらあく】で検索してね。

·昨年に引き続き物価上昇中。

·世の中がコロナウイルスのことなんぞ口に出さなくなった!

·8月よりスタッフの時給1100円にアップする!(青森県の最低賃金853円)


·10月、俳優の火野正平さん来店。NHK-BS「こころ旅」のアポ無し取材。

ビストロらあく初の全国デビュー!(笑)